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 港北ニュタウン建設事業を計画

港北ニュータウン地域は、横浜市の郊外部が急速に乱開発される中で、道路、鉄道等の交通施設に恵まれなかったため、
昭和30年代までは、かなりまとまった規模で自然の状態が保たれてきた。

しかし昭和40年代の高度経済成長期に入って急速に周辺の開発が進み、そのまま放置すれば、
この地域も当然これらの影響を受け乱開発されることになるのは明らかであった。

そこで横浜市は時期を失することなく、この地域における乱開発を未然に防ぐとともに、
人口を計画的に誘導し、併せて都市と農業とが調和した新しいまちを実現するために

「乱
開発の防止」、「都市農業の確立」、「市民参加のまちづくり」を基本理念として港北ニュタウン建設事業を計画した。
 
 昭和30年北山田の人口は約100世帯でした、平成29年6月には約6,000世帯と60倍に増えました
リンク  横浜市立図書館 わが町の昔と今

 赤い屋根が北山田公民館 さくらが満開

田んぼと畑に、山から崩した土を約五メートル位い埋りました

航空写真 開発前の北山田  西暦1974年


航空写真 開発前の北山田全域
  北山田交差点を中心に 一丁目、三丁目、四丁目、五丁目に分れる
 
航空写真 北山田交差点付近
田んぼの稲は、すくすと育ってます

  航空写真 北山田一丁目、七丁目方面
 
写真は上が南側で、中央が神無谷戸の田んぼです、その先は養鶏場です


土で埋められた富士山

  北山田一丁目、二丁目付近

家は撤去、割れた土台のコンクリート、田んぼは徐々に土で埋められる 西暦1983年4月

 工事用道路を作り、トラックが走行

赤い屋根が北山田公民館 西暦1983年4月

 富士山から見た 北山田一丁目、七丁目方面

田んぼと畑を埋めた後、中央に工事用道路を作る

 富士山から見た 北山田一丁目、二丁目方面

 富士山から見た 北山田三丁目方面

  富士山から見た 北山田三丁目、四丁目方面

遠くの右側に都筑資源循環局のゴミ焼却場の煙突が見えます
 
富士山から見た 北山田四丁目、五丁目方面、正面に中川方面の鉄塔が見えます

富士山から見た 北山田六丁目、すみれが丘 住宅
 
北山田交差点付近
 
北山田6丁目20番地から見た 前方林付近に きらめきの街が建てられる
 
ブルトーザで山を削り、田畑を埋めています。

前方の左側赤い家(前Hp担当 栗原紘二 宅)=ビックヨーサン付近 

 
北山田交差点付近

平らな部分は田んぼ 左側山田富士公園付近、中央北山田交差点付近、右側斜面三丁目方面

北山田5丁目付近
手前の土を盛られて場所は、北山田交差点から、西に約200m位
 
富士山から見た
前方の山が四丁目方面、田んぼの中央に日吉元石川線が作られました
 
富士山から見た三丁目、四丁目方面

左の白い山付近が、山田富士ハイツ
 
稲を乾かしてる田んぼ

北山田交差点付近

田んぼが耕され、山の下に小川が流れ、ホタルが飛んでいました 西暦1970年頃

北山田三丁目付近

 木の柱に有線放送用ケーブルが張られてます
放送と電話の二つの機能をもつ有線線放送は、各家庭に付いてます。

田んぼが耕されました ビックヨーサン付近 西暦1970年頃

田んぼが耕される前 ビックヨーサン付近 西暦1969年頃

  前の山と畑が 北山田三丁目、四丁目方面
ご婦人の方は、北山田一丁目付近  西暦1969年頃

冬の田んぼ ビックヨーサン付近,、後ろ側が山田富士公園  西暦1969年頃

平屋の家が、前hp担当の 栗原紘二 宅です。

写真 栗原紘二
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